麦焼酎発祥の島
壱岐で麦焼酎?なぜ?
蒸留酒の製法は大陸から対馬・壱岐を経て伝わった北ルートと、琉球・薩摩から伝わった南ルートがあります。
南ルートは泡盛、北ルートは麦焼酎として銘酒を生みましたが、北ルートは対馬を除いて壱岐・佐賀・福岡は豊かな平野を有する耕作地帯で、いわゆる米文化圏・醸造酒文化圏のはず。
なぜか、広大な平野を持つ壱岐が突然「焼酎」なのでしょうか
実際に、つい最近まで佐賀・福岡ではあまり焼酎は飲まれていませんでした。
今でも福岡の年配者は焼酎をほとんど飲みません。
地元の町内会などで宴会やっても焼酎が用意されていないこともしばしば・・・。
なぜ自給自足も可能な平野を持つ壱岐が清酒でなく麦焼酎なのか。
現在の原の辻遺跡一帯(深江田原)は長崎県で第二の平野です。
普通に考えれば、十分なお米で酒も造り、地理的にも近い佐賀・福岡と同じ清酒文化圏になっているはず。
ここには今だに壱岐が長崎県に属するすることになった歴史的経過が起因します。
鎌倉時代の元寇襲来によって弱体化した幕府は地方の政を元寇撃退の功労者に委譲しました。
ここで登場したのが水軍松浦党から大名になりあがった松浦藩です。
元々海賊でありながら幕府への協力が認められ、これより江戸時代まで長崎県北部一帯を松浦藩として統治することになります。平戸・松浦が領地です。
だが松浦藩の有する領地平戸・松浦は土地が痩せていた。米がとれない。
そこで唯一広大な平野と米の穫れる豊かな土壌を持つ壱岐の米をすべて年貢として取り上げました。
そして鯨。壱岐の米と鯨は貧乏小藩松浦藩の「金の成る木」だったのです。
ちなみに現在の平戸市、松浦市及びその周辺の旧松浦藩本拠地であった地域の住所に、「免」の文字が付くことが多ク存在します。これは税(年貢)を免除する土地、であることを示すものです。それほど米作に不向きな土地であったということです。
こうして壱岐に米文化・醸造文化は根付かなかった。代わりに裏作の麦を主原料とした蒸留酒「焼酎」が生まれることになりました。
時代の風雪を超えて生き残った麦焼酎七つの蔵元のご紹介
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