●ステゴドン象化石⇒
約1200万年前〜200万年前・中国大陸からインドにかけて広く分布。
壱岐の化石→500万年前
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(紀元前3世紀〜紀元4世紀)
●カラカミ遺跡(勝本町立石東・立石仲触)
●原の辻はるのつじ遺跡(芦辺・石田町)
『魏志倭人伝』に一支國の記述
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(紀元3世紀末〜7世紀)
小さな島に、確認されている古墳が256基存在します。
主に円墳・横穴式石室です。
長崎県全体の60%以上に相当する数です。
この数百年、壱岐に強大な権力を持った勢力がいたということを示しています。
主な古墳
勝本町
●双六そうろく古墳 (県下最大級)
立石東触・前方後円墳では県下1位・長さ91m
●対馬塚つしまづか古墳
立石東触・前方後円墳・県下4位・長さ65m
●篠塚ささづか古墳
百合畑触・円墳・径66m・亀形金銅製馬具出土
●掛木かけぎ古墳
布気触・円墳・径23m・石室13.6・家形石棺
●百合畑ゆりはた古墳群
百合畑触・前方後円墳全長26.5m・21・20二基・18他
芦辺町
●鬼の窟おにのいわや古墳
国分本村触・円墳・径45m・横穴式石室→国内12位
九州2位
●大塚山おおつかやま古墳
深江栄触・円墳・径14m・竪穴系横口式石室
郷ノ浦町
●鬼屋窪おにやくぼ古墳
有安触・円墳(封土流失)・石室4.1m・捕鯨線刻画
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(6世紀末〜・聖徳太子摂政593年頃)
●大宰府管下に入る。
●国司・郡司 大化の改新に伴い壱岐に置く。
●防人・烽台 対馬・壱岐・筑紫等に置く。(日本書紀)
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(和銅3・710年〜)
●壱岐郡・石田郡の郡境を定める。(天平1・729)
●遣新羅使(天平8・736)
雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)
遣新羅使の一行に加
わり病死、のち壱岐の石田野に埋葬する。
『万葉集』巻15に挽歌9首あり。
●国分寺 壱岐に国分寺の設置が決定。
壱岐は国分寺を新たに建立せず、壱岐氏の氏寺をあてる。
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(延暦13・794〜)
●防人を置く(承和2・835)⇒
新羅人の来航に備え、壱岐島人(防人)をおく
●新羅人の来襲
●式内神社の決定
『延喜式神名帳』完成。壱岐24社
●刀伊(とい)の賊
刀伊人(女真族)襲来、、島民多数を殺害・略奪する。
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(建久2・1192〜元弘3・1333)
●太宰少弐の管轄下に
●文永の役(文永11・1274)元軍襲来
●弘安の役(弘安4・1281)⇒元軍再来襲
元寇との攻防に功績のあった松浦党の進出が激しくなる。
松浦党築城
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(元弘1・元徳3・1331〜元中9・明徳3・1392)
建武の新政(建武1・1334〜建武2・1335)
(延元3・暦応1・1338〜)
●足利尊氏、全国に安国寺を建立。
海印寺を壱岐安国寺となす。
●倭寇、中国沿岸等を荒らす(嘉吉3・1443)⇒
壱岐・対馬・松浦の倭寇が中国の沿岸を襲う
壱岐、松浦氏の支配下へ
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(天正1・1573〜)
●武末城(勝本城)築城(勝本城は名護屋城の出城)
●文禄の役(文禄1・1592)⇒
秀吉、朝鮮出兵
●慶長の役(慶長2・1597)秀吉、再度出兵
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(慶長8・1603〜)
●朝鮮通信使(慶長12・1607)⇒
第一回朝鮮通信使、対馬を経て勝本に来着
(以後、12回の使節が来る。)
●遠見番所・烽台 岳の辻と若宮島に置く。
●捕鯨最盛期
鯨ひとつで七浦潤うといわれた。
九州北部、西日本各地から壱岐に鯨漁に来ていた。
●百姓源蔵直訴事件
(文政2・1819)⇒
壱岐国可須村(現勝本町)東触の百姓源蔵は、幕府に松浦藩の秕政を弾劾直訴し、翌年、松浦藩により百間馬場において処刑される。
●『春一番』の発祥(安政6・1859/2/13)⇒
郷の浦町元居の漁船、五島沖で強風により遭難し、五十三人死亡。
この風を「春一はるいち」と呼び、怖れる。『春一番』の語源となる。
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明治時代(明治元年9月8日、慶應を明治と改元。1868年)
版籍奉還(明治2年)→平戸藩主は平戸藩知事へ
●長崎県へ(明治4・1871)
廃藩置県 平戸藩を廃して平戸県へ
長崎・平戸・島原・福江・大村を合して長崎県へ
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日本人日本国(ヤマト)のはじまり |
古代から中世日本のあらまし |
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