勝本浦生まれのジジイが薦める壱岐の歴史見分!

壱岐

倭(ヤマト)の興りは壱岐!

海の大国から山の大国へ 2

対馬から壱岐へ、ここで財力・武力をつけた

対馬から壱岐へ、壱岐から邪馬台国へ

半島の釜山から南へ50キロで対馬の北端です。
倭の先祖は海を渡って対馬に着いた。本来なら、対馬で安定した生活を築くところですが 対馬は海からすぐ山の地形で平野がなかった。すでに農耕技術を持っていたであろうご先祖様は対馬の南端から見えるのっぺりとした島、壱岐にわたることにした、

壱岐にわたってみるとなるほど、高い山はない、平地が多い。
農耕に適している川の流れる湿地や平野があり、海に近く、小動物を狩るにも適した林があった。彼らはここで子孫を増やした。
農耕・採取・狩猟だけでなく船を作って対馬・五島・呼子、朝鮮半島あたりまで交易を始めた。

玄界灘は荒れる海。しかし季節と潮を知ったかれらには逆に悪条件も味方にできる。
もちろん正当な交易もあっただろうし、海賊行為もあっただろう。巧みな航海術が彼らを強大にした。
そして財を蓄え、最新武器を手に入れ、玄界灘一円をエリアとする軍事国家となった。

勝本町と芦辺町の境あたりを中心に点在する「鬼の岩屋」と呼ばれる古墳の数の多さは驚きに値します。
実はこれでも一部にすぎません。 壱岐島内に確認されているこうした古墳は256基もあります。 しかも、長崎県では一番古墳の数が多く、長崎県 全体の60%を占めるそうです。

掛木古墳から百合畑古墳群、そして県下最大の前方後円墳双六古墳、ぜひ足を運んでみてください
この小さな島になぜ・・とお思いになるはず。
このエリアはほぼ壱岐の中央部。海から6・7キロはずれた小高い山の重なる地域です。
農耕も漁労も交易もこのあたりは不便。生活中心地は海辺の平野にあったはず。
そうです、ココはエジプトの「王家の谷」と同じ、王家の死者の眠る地、いうなれば「壱岐王家の丘」 なんですね。


それにしても256基はケタはずれに多い。おそらく、長きにわたって壱岐にとどまって 経済力・武力に優れた海の王国になっていったのでしょう。 その歴代王とその一族が眠るのが「壱岐王家の丘」です。

壱岐の国の首都はどこにあったか
大きな規模の遺跡としてカラカミ遺跡・原の辻(ハルノツジ) 遺跡があります。
時代の前後関係もありますが 基盤となる農耕・水利の面で原の辻が間違いないでしょうか。
現在は干拓されて長崎県で二番目に広い平野ですが、弥生時代も、かなり広い平野であったことは間違いないようです 。
原の辻遺跡は静岡の登呂・佐賀の吉野ヶ里と並ぶ、國指定特別遺跡 になっています。
国府の環濠集落が復元されて公園になっており、出土品は近くの一支国博物館に保管・展示されています。


国分鬼の岩屋 と掛古墳

原の辻遺跡・国府復元公園と博物館

やがて彼らは壱岐の南方に島伝いに見えるその向こうの大地を目指す。

 


海の大国から山の大国邪馬台国へ

壱岐の印通寺から呼子までほぼ27キロ。
交易で地理や潮については熟知していた、
最新の武器戦術と戦いに慣れた軍隊をもっていたからたやすく上陸制圧したであろう。
そして海沿いに東へ進み前原エリアを従え、さらに博多の地に。
後に魏志倭人伝に記される 末盧(まつろ=現在の唐津市)・伊都(いと=現在の糸島市)・奴の国(な=現在の福岡市)です

糸島・博多も大勢の人間を養う食糧を得るには充分な平野がある。
領土を南に広げながら国力を拡大し、国の中心となる都を作った。これが邪馬台国。
倭人伝に不彌国「うみ=宇美町」以降列記されている国名が現在の筑後地区にあった国で、この
浮羽〜久留米〜八女にまたがる広大な地域のどこかに中心都市を持っていたのではないでしょうか。

邪馬台国と言えば卑弥呼。卑弥呼といえば神功皇后
卑弥呼と神功皇后は同一人物ではないかとの説がありますが、年代的に合わないと思いますのでここでは言及しないことにします。

邪馬台国は山大国を意味し、その前身に海大国があったのではないかという説がある。
強大な国家となった邪馬台国が、先祖の地海の大国を崇める意味で山(陸)の大国、邪馬台国を名乗ったのではないかという説である。
彼らが先祖の地と崇める海の大国とは??それが壱岐。

福岡市の西に壱岐という地名が残っています
壱岐神社という神社があります。
壱岐神社から参道を北にをまっすぐ進んだ延長線上の海の彼方にあるもの、それは壱岐の島

のちの大和朝廷が奈良の地に、九州筑後(福岡南部)と同じ名前を付けたのと同じでしょう。
イギリス人が新大陸アメリカ東部に入植し、かつて自分たちが暮らした土地の名前を付けたのと同じです。
自分たちの先祖がいた島、母なる聖地を地名に残し、その聖地に向かって社を立てた。
社とは言いますが現在の神社の社殿ということではありませんよ。

糸島前原から福岡市西部、板付(福岡空港南側)春日市周辺は弥生時代の遺跡が多いですね。
ちなみに今の博多湾、その昔は現在の福岡空港あたりまでが海岸線だったそうです
板付遺跡・須玖遺跡などがあります。 今は海から5・6キロですが、当時は海のそばだったんですね。

一方、邪馬台国の存在地を立証する遺跡がでてこない。
これが邪馬台国畿内説などという妙な説の存在を許すことになるわけです。
魏志倭人伝の距離記述からしても邪馬台国が畿内なら一支国は奄美大島か!

福岡南部は筑後川の流域です。恵みも大きければ災いも大きい。

人知れず、深い土の下で、ねむっているのでしょう。

 

距離が書いてあれば調べる手だてもあるけど、宇美以降は国名の羅列になってます。
おそらく実際に行ったのではなく、こんな国があるらしい、として書き連ねたのでしょう。
方向がわからない、距離がわからない、おまけに 昔の発音と現代の発音が違うのでなかなか現在の地名との正確な比定が困難ですね。

魏志倭人伝に壱岐が「一大国」と書かれているのは書き記すときに間違えて「大」と書いたもので、「支」の一支国 が正しいとして、
現在公式には「一支国」 になっています。これもどうだかねえ・・
当時の書物に 「一大国」 と書いてあるものをわざわざ「一支国」に直すのって、傲慢不遜じゃないかい?!


製作・編集:電脳屋 <馬場先組>  サイトHOMEへ