勝本浦生まれのジジイが語る壱岐<年表>!

壱岐

倭(ヤマト)の興りは壱岐!

中世までの日本の歴史舞台

日本の歴史年表と壱岐

元寇の前に年表で確認

大和朝廷が都を定め、飛鳥時代になると、記録が残っていますのでもう神話時代の話ではなくなります。

まず、この時代にこんな事件がおきた、それを年表で確認してください。

石器時代



縄文時代





弥生時代

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飛鳥時代

645大化の改新

古事記・ 日本書紀

 

奈良時代

715〜


 

 

平安時代

806〜

 


 

鎌倉時代

1190〜



 

南北朝時代

1329〜

室町時代

1392〜

 

 

安土桃山時代

1573〜



江戸時代

1615〜

 

 

 

 

 

 

 

 

明治

1868〜




●ステゴドン象化石⇒
約1200万年前〜200万年前・中国大陸からインドにかけて広く分布。日本海は海ではなかった。
壱岐の化石→500万年前


(紀元前3世紀〜紀元4世紀)
●カラカミ遺跡(勝本町立石東・立石仲触)
●原の辻はるのつじ遺跡(芦辺・石田町)
   
『魏志倭人伝』に一大國の記述



(紀元3世紀末〜6世紀末)
小さな島に、確認されている古墳が256基存在します。
主に円墳・横穴式石室です。
長崎県全体の60%以上に相当する数です。
この数百年、壱岐に強大な権力を持った勢力がいたということを示しています。

主な古墳
勝本町
●双六そうろく古墳 (県下最大級)
立石東触・前方後円墳では県下1位・長さ91m

●対馬塚つしまづか古墳
立石東触・前方後円墳・県下4位・長さ65m
        
●篠塚ささづか古墳
百合畑触・円墳・径66m・亀形金銅製馬具出土

●掛木かけぎ古墳
布気触・円墳・径23m・石室13.6・家形石棺

●百合畑ゆりはた古墳群
百合畑触・前方後円墳全長26.5m・21・20二基・18他

芦辺町
●鬼の窟おにのいわや古墳
国分本村触・円墳・径45m・横穴式石室→国内12位
                 九州2位
●大塚山おおつかやま古墳
深江栄触・円墳・径14m・竪穴系横口式石室

郷ノ浦町
●鬼屋窪おにやくぼ古墳
有安触・円墳(封土流失)・石室4.1m・捕鯨線刻画
 


(6世紀末〜・聖徳太子摂政593年頃)
●大宰府管下に入る。 
●国司・郡司 大化の改新に伴い壱岐に置く。
●防人・烽台 対馬・壱岐・筑紫等に置く。



(和銅3・710年〜)
●壱岐郡・石田郡の郡境を定める。(天平1・729)

●遣新羅使(天平8・736)
雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ)
遣新羅使の一行に加
わり病死、のち壱岐の石田野に埋葬する。
 『万葉集』巻15に挽歌9首あり。

●国分寺 壱岐に国分寺の設置が決定。
壱岐は国分寺を新たに建立せず、壱岐氏の氏寺をあてる。

(延暦13・794〜)
●防人を置く(承和2・835)⇒
新羅人の来航に備え、壱岐島人(防人)をおく

●新羅人の来襲
●式内神社の決定
『延喜式神名帳』完成。壱岐24社

●刀伊(とい)の賊
刀伊人(女真族)襲来、、島民多数を殺害・略奪する。


(建久2・1192〜元弘3・1333)
●太宰少弐の管轄下に
●文永の役(文永11・1274)元軍襲来
●弘安の役(弘安4・1281)⇒元軍再来襲

元寇との攻防に功績のあった松浦党の進出が激しくなる。
松浦党築城


(元弘1・元徳3・1331〜元中9・明徳3・1392)
建武の新政(建武1・1334〜建武2・1335)


(延元3・暦応1・1338〜)
●足利尊氏、全国に安国寺を建立。
海印寺を壱岐安国寺となす。

●倭寇、中国沿岸等を荒らす(嘉吉3・1443)⇒
壱岐・対馬・松浦の倭寇が中国の沿岸を襲う
壱岐、松浦氏の支配下へ

(天正1・1573〜)
●武末城(勝本城)築城(勝本城は名護屋城の出城)
●文禄の役(文禄1・1592)⇒
 秀吉、朝鮮出兵

●慶長の役(慶長2・1597)秀吉、再度出兵

(慶長8・1603〜)
●朝鮮通信使(慶長12・1607)⇒
  第一回朝鮮通信使、対馬を経て勝本に来着
  (以後、12回の使節が来る。)

●遠見番所・烽台 岳の辻と若宮島に置く。

●捕鯨最盛期
 鯨ひとつで七浦潤うといわれた。
 九州北部、西日本各地から壱岐に鯨漁に来ていた。

●百姓源蔵直訴事件
(文政2・1819)⇒
壱岐国可須村(現勝本町)東触の百姓源蔵は、幕府に松浦藩の秕政を弾劾直訴し、翌年、松浦藩により百間馬場において処刑される。



●『春一番』の発祥(安政6・1859/2/13)⇒
郷の浦町元居の漁船、五島沖で強風により遭難し、五十三人死亡。
この風を「春一はるいち」と呼び、怖れる。『春一番』の語源となる。



明治時代(明治元年9月8日、慶應を明治と改元。1868年)
版籍奉還(明治2年)→平戸藩主は平戸藩知事へ

●長崎県へ(明治4・1871)
廃藩置県 平戸藩を廃して平戸県へ
長崎・平戸・島原・福江・大村を合して長崎県へ

 
 
 
壱岐修学旅行資料
ステゴドン象(再現模型)
壱岐 修学旅行 歴史資料 魏志倭人伝 元寇 古事記 日本書紀
横穴式古墳・鬼の岩屋壱岐修学旅行資料 弥生初期の古墳
掛木古墳
壱岐修学旅行資料 弥生初期の古墳
双六古墳(前方後円墳原型)
壱岐修学旅行資料 魏志倭人伝
魏志倭人伝・一大國の記述
壱岐修学旅行資料 原の辻遺跡
原の辻遺跡・資料館内部
壱岐 修学旅行 歴史資料 魏志倭人伝 元寇 古事記 日本書紀
原の辻遺跡出土品
壱岐 修学旅行 歴史資料
足利尊氏の安国寺
壱岐修学旅行資料
岳の辻・のろし台
壱岐 修学旅行 歴史資料
元船の碇石
壱岐修学旅行資料 歴史
クジラ組捕鯨絵図
壱岐 修学旅行 歴史資料
春一番の塔
 

 

 

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製作・編集:電脳屋 <馬場先組>