壱岐漁師が怖れた早春の突風・春一
気象用語から日本国標準語になった「春一番」
そもそもの語源は壱岐漁師が恐れる早春の突風を伴った嵐です。
おそらく過去、この春の突風で多くの犠牲者が出たものと思いますが
春一番に秘められた壱岐漁師の遭難事件はこうです。
1859年、2月13日。(2月13日は旧暦ですから現在の3月10〜20日前後でしょうか)。
壱岐
郷ノ浦元居を出航した七隻の舟は五島沖に向かっていました。
そこへ突然の春一番。七隻は遭難し、53人の漁師が帰らぬ人になってしまいました。
櫓こぎ舟だから、あ、まずいと思った時はもう間に合わないねえ。
これ以降、壱岐の漁師の間で春先におこる南風の突風を伴った嵐を「春一」「春一番」と呼ぶようになりました。
郷ノ浦から五島宇久島までおよそ80キロです。途中に平島、二神島、的山大島はあるんですが
まずいと思って必死に漕いでも、二神島、的山大島にも戻れなかったんでしょうね
全国的に、春一番というとキャンディーズの詩のイメージもあって、♪春が来た!というイメージですが、
壱岐で春一番というとちょっと悲しいイメージがあります。
現在は元居公園の八幡様横に供養碑が、近くに(郷ノ浦に入港するとターミナル左側の丘の上)春一番の塔が建てられています。
ちなみにwikipediaでの記述では
春一番(はるいちばん)は、例年2月から3月の半ば、立春から春分の間に、その年に初めて吹く南寄り(東南東から西南西)の強い風。
主に太平洋側で観測される。春一番が吹いた日は気温が上昇し、翌日は西高東低の冬型の気圧配置となり、寒さが戻ることが多い
民俗学者の宮本常一は研究のため郷ノ浦町を訪れてこの「春一番」をいう語を採集し、1959年(昭和34年)に壱岐で用いられている語として『俳句歳時記』で紹介した。これをきっかけに、「春一番」は新聞などで使われるようになり、一般に広まったとされる。つまり、郷ノ浦町で使われていた「春一」または「春一番」は、この語の初出であるかどうかはともかく、現在広く用いられている「春一番」という語の直接の源であるということになる。なお、「春一番」という語の新聞での初出は、1963年(昭和38年)2月15日の朝日新聞朝刊での「春の突風」という記事であるとされ、このため2月15日は「春一番名付けの日」とされている
(一部抜粋)となっています。
漁師ですから、覚悟しているとはいえ、泳ぎも達者とはいえ、荒れた海に落ちたらねえ・・・。
漁師の海難事故・行方不明はよく耳にしてきました。同級生でも三人、親戚も二人亡くなっています。亡くなっていますとは言うものの、船だけは発見されたりしますが遺体が上がらないのが多いです。漁師はライフジャケット着けてないし、命綱つけてないし、ほんと舟板一枚、底は地獄なんですね。
私が物心ついた頃
、家は焼玉エンジンの漁船でした
たまに、その昔のことなど聞くと、爺さん(祖父)が若いころは、兄弟3人で乗り込んだ小船で櫓をこいで対馬まで漁に出ていたようです
壱岐勝本から対馬までおよそ50キロ。
現在のフェリーでも2時間半。櫓をこいで・・何時間かかるんでしょうか
短距離なら猛ダッシュ、全力で漕いでも、長距離だから全力漕ぎはできません。
歩く速さほどの時速5キロとして・・・(計算中) ・・・ゲ!! 10時間!!
もちろん日帰りではなく半月・ほどは帰らなかったでしょうが14時間も海原をひたすら櫓をこぎ続ける
天気予報もラジオも無線もなかった時代で経験とカンだけが頼り
途中で天候が変わった、大しけになるぞ、とあわてても間に合いませんね。
余談ですが、そうして何度か対馬に行ってるうちにあるとき魚と稼いだお金だけじゃなく 対馬の女性を二人載せてきたそうです。
その対馬の女性が川尻の長男の嫁、中折の三男の嫁だったそうな。
二男だったうちのじいちゃんは目の前の家のウメさんを嫁にしました